2011年2月21日月曜日

「兼平のきり」と伝統のすさまじさ


 兼序は、秦河勝の末裔である能俊から
19代目にあたる長宗我部家の当主である。
長宗我部家は土佐七雄の中にあって、次第に勢力を
伸ばしてきていた。
特に、16代文兼が岡豊城に関白をも勤めたことがある一條教房を招いて以来、
本山らほかの豪族らからは「一條氏の権威を借りて、驕っている」
とねたまれていた。
そして、ついに永正5年(1508年)5月、3000の兵を集めて、
本山、大平、吉良らの軍勢が兼序の居城である岡豊にに攻め込んできた。
兼序の勢力はわずか5、6百人。かなうわけがない。
覚悟を定めた兼序は、嫡子の千翁丸を一條氏のところに
若い兵をつけて送り、自らは老兵とともに、
翌朝、最後の戦をすることを決める。
そのため、兼序ら城内に残ったつわものたちが宴を張ることとする。
そのときの様子を吉田孝世の「土佐物語」は次のように語っている。





『「この中で、誰か一人生き残らん。いっしょに討ち死にして、
また同じ蓮に生まれようではないか。
この喜びにここで最期の一さしを舞おうではないか」。
と、兼序に小鼓を参らせ、野田太鼓、桑名笛を仕り、兼平のきりをぞ囃子ける。』





戦国時代の武士の見事な生き様を描いている場面である。
だが、この中に書かれているの「兼平のきり」という言葉が何を指すのかわからなかった。
そこで、2011年2月19日。
能の「兼平」を、江戸川橋の「宝生流」の会に行きみせてもらった。
つまり、「兼平のきり」とは長宗我部家とも縁のある秦元清こと世阿弥の書いた能、「兼平」
の最後の部分「仕舞」である。能では、最後の五分程を「仕舞」という。
能「兼平」の「仕舞」は、今井の四郎兼平の亡霊が、その最期の様を
旅の僧に演じて見せる場面。
その内容は、太刀を逆さに咥えて、馬から落下、頭蓋骨を突き抜けるというものである。
長宗我部の19代兼序はこの「兼平のきり」を、老兵らの前で自ら演じ、
戦国武将の最期を見事に飾ろうと、確認しあったのである。
そのことが、この能を見て鮮明にわかった。
と同時に、そのとき500年前に、兼序が舞ったものと、
同じ世阿弥の能を見ている現代の自分が重なり、一瞬身震いを感じた。
それは伝統の持つすさまじさであろうか。