2011年11月14日月曜日

地名研究会で講演いたしました



民俗学者の谷川健一さんが主催する日本地名研究所の
総会である「全国地名研究者大会」に招かれて、
「長宗我部」をテーマに講演させていただきました。
総会には全国から200人もの研究者が集まり、
熱心に聴いていただきました。
講演終了後も質問が集中、気合の入ったお話が出来ました。
長宗我部関連でも、中村が四万十に、日和佐が美波に
といくつも地名が変わっています。
私の生誕地も「水道町62」が「上町」に。
地名が管長の勝手で変えられてしまうと、
歴史認識にも、大きく影響しますよね。

2011年11月4日金曜日

信長と元親

 22歳の初夏である永禄3年(1560年)5月。
長宗我部元親は長浜の合戦に参加、戦果を挙げる。
 数の上では劣勢でありながらも
元親は本山軍を破る。
これが元親の初陣である。
 このとき、本山茂辰の籠もる浦戸城も陥している。
浦戸は土佐一番の港を持っていて、
ここから甲浦を経由して、大坂にも、京の都にも行ける。
 元親は、本山が去った後の浦戸の城に登り、
何を思ったであろう。
 この同じ頃、元親と同じ天文年間に生まれた信長は、
都に上る途中の、今川義元を桶狭間で破っている。
 その情報を元親はいつ知ったのか。
いずれにしても、浦戸港を経由して情報も入ってくるであろうし、
元親が、信長に遭おうとの気持ちを持った場合、
都に上るのもこの浦戸からである。
元親は雑賀、伊賀衆とも、通じていたとみられ、情報は
いろいろとっていたようである。
 この桶狭間の合戦以後の元親の最大の関心事は、
当然織田信長に集中することになる。
浦戸城に吹き上げてくる、太平洋と浦戸湾双方からの風の
交わりの中で、長宗我部元親は、きっと天下の形勢に
広く心を馳せていたことであろう。

2011年9月24日土曜日

芸能ゆかりの秦神社

 秦神社は、長宗我部家ゆかりの地、
高知市の長浜にあります。
ここにはちょっと知られた地酒「酔鯨」の醸造所もあり、
また、海に近いところから、船乗りさんも多いところです。
長宗我部家の中興の祖元親は、
この地で戦勝祈願をしています。

 秦神社は、元親の末弟親房から十二代に当たる
弥九郎重親が、池神蔵に「奉願書」を出し、
建立が許されたものです。
「秦」の名がつけられたのは、長宗我部家が
秦の河勝の末裔であることから、
秦家の神社としたかったためでしょう。
日本全国を見渡しても、「秦神社」と称するところは
見当たりません。
また、秦家は世阿弥(秦元清)を生んでいることや、
四天王寺の楽人、猿楽の徒も秦河勝を
祖としていると言われ、芸能につながる家系です。
そうしたこともあり、秦神社は芸能ゆかりの神社
として位置づけることもできます。

2011年7月26日火曜日

元親の三つのチャンス


日本の観光について、考えている観光情報協会
の依頼で先日、講演しました。
そのときのテーマは
「元親が中央に躍り出ることが望めた三つのチャンス」
でした。
それは、本能寺の変、次いで小牧・長久手の戦い、
そして、関ヶ原です。
本能寺の変は、1582年に起こった明智光秀が起こした
主君の織田信長襲撃です。
元親は、本能寺の変の首謀者といわれる斉藤利光の縁続きでもあり、
この光秀の陰謀を事前に知っていたといわれます。
高島孫右衛門による「元親記」にも
「斉藤利光は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いをさし急いだ」
とある。
この戦で、元親が秀吉を光秀とともに
中国戦線に貼り付けさせるために背後から攻めていたら、
歴史は面白かったと思う。
次いで、小牧・長久手の戦い。
このとき長宗我部、徳川連合が出来ていた。
にもかかわらず、元親は参戦に送れをとった。
家康から恩賞も約束されていたのに、である。
もう一つは天下分け目の関ヶ原の戦い。
思うに元親は、もう二、三年生きながらえて、みずからこの戦を
やりぬくつもりだったのではないだろうか。
戦さの気配が近づくに連れて、元親は血肉躍らせていたのでは。
にもかかわらず、彼の命の火は、戦いを目前にして非情にも消えた。
元親は悲運の武将といえるのであろうか。

浜木綿の花が咲きました


五島列島から運んだ浜木綿の花が咲きました。
浜木綿の花はなぜか夕方に開きます。
六つの花弁はすべて純白です。
そして、柔らかな香りを放っています。
関東にも浜木綿は生えていますが、
少し五島のものとは、葉の形などが異なるようです。
いずれにしても、その白い花弁と香りは見事で、
五島列島の浜辺では、群生した浜木綿がみられ、
その浜木綿たちは海岸に寄せてくる波の音を聞きつつ、見事な花を咲かせています。

2011年5月28日土曜日

泰山木が咲きました

 庭の泰山木の花が咲きました。
 白く柔らかい花弁が、雨に静かに濡れています。
 高知では先週、元親の初陣祭が行われました。
 その初陣祭で、四万十に住む若いお嬢さんに
 あって、お話する機会を得ました。
 生き生きした素晴らしい瞳をもった方で、
 そのお嬢さんと話していると、 
 家康も、それまでずいぶん協力してきた長宗我部家に、
 せめて土佐中村(四万十)ぐらい残してくれてもよかったのに、
 なぜ、あのように徹底的に深い遺恨でもあるかのごとく
 潰してしまったのだろうか。と、考えてしまいました。
 
 家康に遺恨があるとすれば、私が思うには、
 それは小牧・長久手の戦いの際の、
 元親の出陣の遅れでは、ないか。
 それは秀吉が四国征伐を計画した際、
 家康は全く「調停」せず、
 冷たく静観しているところにも出ている。
 家康にしてみれば、「小牧・長久手の戦さで、元親さえ
 約束通り、もっと早く秀吉を攻めてくれていたら」
 の思いがずっと付きまとい、
 相当悔しかったのではないだろうか。
 小牧・長久手で勝利していれば家康に
 「タヌキおやじ」の異名も
 つかずにすんでいたことでしょうしね。

2011年3月11日金曜日

吾南の名勝と浦戸城

 高知県の長浜にある若宮八幡宮は土佐の長宗我部元親が
出陣の際に、戦勝祈願をした神社である。
 だから若宮八幡宮には元親公が使ったものといわれる陣太鼓や
小文書などがあり、初陣式などの祭事も行われている。
 最近、この神社が昭和60年に発行した長濱、浦戸、御畳瀬を中心に紹介した
「吾南の名勝」と題する本を読むことが出来た。
 長宗我部の系図を整理していただいた寺石正路氏がこの本の
巻頭に次のように書いている。
 「土佐国は四国の南部にありて、地勢は僻遠にありといえども、
幸いにして、山水奇絶にして、風趣に富むところが多く、
東に室戸あり、中に浦度湾あり、西に足摺岬あり、
この三大名勝は江山秀麗にして、ゆくゆく道路交通の開く
暁には、高知県の三大公園としてその勝名を海内に檀にするに
いたるは疑いなきところなるべし」
 このように、寺石氏は3名所を位置づけていた。
 そして、浦戸については、紀貫之が舟を止めたところであり、
元親の城があった場所でもあるので、土佐の風景と歴史
の両面で大切にすべき場所である、としている。
 なるほど、この3地点を結んで、俯瞰してみると、
なるほど土佐が一段と美しくみえてくるから不思議である。

2011年2月21日月曜日

「兼平のきり」と伝統のすさまじさ


 兼序は、秦河勝の末裔である能俊から
19代目にあたる長宗我部家の当主である。
長宗我部家は土佐七雄の中にあって、次第に勢力を
伸ばしてきていた。
特に、16代文兼が岡豊城に関白をも勤めたことがある一條教房を招いて以来、
本山らほかの豪族らからは「一條氏の権威を借りて、驕っている」
とねたまれていた。
そして、ついに永正5年(1508年)5月、3000の兵を集めて、
本山、大平、吉良らの軍勢が兼序の居城である岡豊にに攻め込んできた。
兼序の勢力はわずか5、6百人。かなうわけがない。
覚悟を定めた兼序は、嫡子の千翁丸を一條氏のところに
若い兵をつけて送り、自らは老兵とともに、
翌朝、最後の戦をすることを決める。
そのため、兼序ら城内に残ったつわものたちが宴を張ることとする。
そのときの様子を吉田孝世の「土佐物語」は次のように語っている。





『「この中で、誰か一人生き残らん。いっしょに討ち死にして、
また同じ蓮に生まれようではないか。
この喜びにここで最期の一さしを舞おうではないか」。
と、兼序に小鼓を参らせ、野田太鼓、桑名笛を仕り、兼平のきりをぞ囃子ける。』





戦国時代の武士の見事な生き様を描いている場面である。
だが、この中に書かれているの「兼平のきり」という言葉が何を指すのかわからなかった。
そこで、2011年2月19日。
能の「兼平」を、江戸川橋の「宝生流」の会に行きみせてもらった。
つまり、「兼平のきり」とは長宗我部家とも縁のある秦元清こと世阿弥の書いた能、「兼平」
の最後の部分「仕舞」である。能では、最後の五分程を「仕舞」という。
能「兼平」の「仕舞」は、今井の四郎兼平の亡霊が、その最期の様を
旅の僧に演じて見せる場面。
その内容は、太刀を逆さに咥えて、馬から落下、頭蓋骨を突き抜けるというものである。
長宗我部の19代兼序はこの「兼平のきり」を、老兵らの前で自ら演じ、
戦国武将の最期を見事に飾ろうと、確認しあったのである。
そのことが、この能を見て鮮明にわかった。
と同時に、そのとき500年前に、兼序が舞ったものと、
同じ世阿弥の能を見ている現代の自分が重なり、一瞬身震いを感じた。
それは伝統の持つすさまじさであろうか。