2010年12月9日木曜日

兼平のきり

 古典能の演目に「兼平のきり」というのがある。
長宗我部家の家系で、興隆を果たした武将(国親の親)に兼序がいる。
その兼序は、周辺の土豪であった本山、吉良、山田らに、ねたまれていた。
というのも、十五代の元親以来、長宗我部は一條家など中央政権
との関係を強くして、きらびやかに見えていたようだ。
したがって、他の土佐の土豪たちには
「京の権勢をカサに鼻持ちなら無いヤツ」とはやされていた。

 ある日三千の勢力を持って、兼序の居城であった岡豊が攻められる。
むろん、攻め手は本山、吉良、山田らの連合軍である。
兼序の勢力はわずか、7,8百。

 これでは多勢に無勢、そこで兼序らは死を覚悟して、
継嗣の千雄丸らを逃した後、老兵等で「兼平のきり」を舞うのである。
 しかし、なぜこの能の演目を、この際に選んだのか、ということが、
ずっと気にかかった謎であった。
 そして、先日荻窪のカルチャーセンターでの講義を
聞きに参加していただいた方の中に、能の演者がいて、
このくだりについて説明していただき、謎は氷解した。
 この「兼平のきり」は最期の死に方が、「喉を突いて死ぬ」
という覚悟のすさまじいものであるそうだ。
 兼序や陥落覚悟の城中に残った老兵たちは、そういう能を舞ったのである。
しかも、能はわが秦一族の、世阿弥が創設者でもあった。

2010年12月7日火曜日

蠃姓系図

 長宗我部の系図を遡ると、「蠃姓(えいせい)系図」に行き当たる。
ところが、この蠃姓という言葉は広辞苑にも出てこず、現代では
ほとんど使われなくなった、
難しい用語である。
「長宗我部」を執筆するに当たって、「闔国(こう)之部」とか、
なにやらややこしく、古めかしい表記に何度もぶつかった。

 この現代ではほとんどつかわれない「蠃姓系図」というのは、
秦国に由来した系図のことである。
当時、日本には大陸から渡ってきた人々が多かった。
秦氏について、がまさしくそれである。
そして、その系図を紐解くと秦の始皇帝から、
日本に渡ってきた流れが良く分かる。
日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと、
孝安天皇)なども登場してきて、「日本書紀」をひもときつつ、
考えさせられる。
 この系図に長宗我部氏が記されているのだが、その源流となった
秦河勝の時代に、秦氏は全人口の5%に当たる20万人ほどもいて、
大きな勢力を維持していた、という。